言霊プレス。

自己表現活動家の活動日記。

悪気の無い悪意。

意外とどこにでも転がっているのが「悪気の無い悪意」なんですね。

口にしている本人には悪気も無いし、冗談で済まされる事として認識している言葉や行動であって、そこに悪意は殆ど無いにしても、受け取る側がその言葉や行動に悪意を感じてしまったら、それは悪意になって受け取った側の中に蓄積されてしまうのですね。

 

とはいえ、そのひとつひとつを気にしていたら何も話せなくなってしまいます。 それでも、自分の放つ言葉に悪意があるかないかについては実は本心では知っていたりするものです。 気に入らないと思う人に対しての言葉はキツくなりますし、気に入っている人に対しての言葉は甘くなるでしょう。 そうして、人によって「事実」は違ってみえるもので、それぞれの「事実」があるわけですから、どれが本当かという事は心の問題でもあるのですね。 要するに、「事実」は然程、重要ではなく、その言葉や行動にどう思わせたか、どう思ったかにようるわけです。

 

また、誰かを救おうとする言葉や行動も、本人が欲していないのに自分が「言いたい」からといって伝えるというのは「余計なお世話」なんですね。 誰かである本人が助言が欲しいと言っていても「聞いて欲しい」だけなのかもしれないですからね。 誰にも誰かの本心は分からないものです。 分からないからこそ、配慮するわけです。 心配だからという言葉に乗せて彼是と自分の価値観や言い分を通そうとするというのは傲慢です。 人それぞれに人生があり、これまでの道のりがあり、尊重してゆくものといえます。 尊重しようとすれば、口にする言葉に「悪気のない悪意」も無くなってゆくでしょう。

 

人間関係というのは簡単ではありません。 親子であれ、兄弟姉妹であれ、恋人であれ、夫婦であれ、近隣の人々であれ、なんであれ、些細な事で壊れるものです。 その些細な事というのは、自分にとっては「些細な事」かもしれませんが、相手にとっては「重大な事」かもしれないわけです。 だからこそ、心を開いて話し合う事が必要となり、お互いに聞く耳を持つことが大切になってくるといえます。

 

ただし、誰とでも円滑に出来るようにというものではなく、気が合わない(波動が合わない)方というのは実際に居るわけです。 そういう場合には、気が合わないのですから、わざわざ合わせる必要はありませんし、また、いちいち否定する必要もないわけです。 その代わりに、できるだけ関わらないように心掛けることをすればいいのです。 そうして、その気が合わない方にも人生があり、道のりがあるわけですから、尊重する気持ちを持つだけでいいわけです。 「そういう人だから」でいいのです。 それ以上も以下も思う必要はありません。 その方はその方の生き方があります。 自分がそこに関わってゆく必要はないのです。 仕事上、どうしても関わらなければならない場合には関わることを少なくすることでご縁が薄れてゆき、そのうちに関わらなくてもいいような状態へと変化してゆくでしょう。

 

周囲を変えるのではなく、自分が行動して自分を変えることで変化をもたらしてゆくわけです。

 

自分の中で心地よい場所を用意し、日々の中で蓄積されるストレスや悪意を発散し、浄化できる時間を持つといいでしょうね。 湯舟にゆっくり浸かるというのもいいでしょう。 リラックスできる音楽を聴くのもいいでしょう。 自分の夢中になれることをするのもいいでしょう。 どんなことであれ、自分の中に新鮮さやゆとりを持つことが大切です。

 

どんな人間関係であっても、仲良くしなければならないということはないのですから、自分が少しでも心地よく気分よく暮らすために、自分を尊重し、どんな相手でも尊重することで問題は解決へと進んでゆくでしょう。 関わってゆかなければならないということはありません。 時間が解決する場合もあるでしょう。 その時が来た時に行動すればいいのです。 どんなことであれ、どう対処するかが大切なことといえるでしょう。

 

「悪気の無い悪意」からは遠ざかることです。

 

 

では、また!

 

福 水琴